こんにちは。ライフコーチ大坂和美です。
私の最近の楽しみは、月はじめに、その月に読む分だけ買った小説を、週末に一冊ずつ読むこと。
先週末は、落合恵子さん著『泣きかたをわすれていた』を読みました。
こどもの本の専門店「ひろば」を営みながら、7年にわたる母親の介護を続けた、主人公冬子の物語…
小説ではあるものの、落合恵子さん自身、子どもの本の専門店「クレヨンハウス」を主宰しながら、7年にわたって母親の介護を経験され
「母の死から10年が過ぎ、小説という物語の力を借りることで、心の中にたまっていたことをやっと外に出すことができた」
と語っておられます。
ここでは小説の詳しい内容について特に触れないのですが、本書を読み進める中で私は、とても心に残る文章に出会いました。
自由にしていい、というのが母独自の、わたしへのせつない願いであり、見方を変えるなら、無意識の、ある種の支配であったのかもしれない。
読み進める手がとまり、とても心がザワザワしたのです。
私もそうなってはいないだろうか?
「自由にしていい」という支配
この言葉に触れて、ザワザワした私の心。
その奥にあるのは
「私にもそういう部分があるのかもしれない」
そんな思いでした。
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私自身は、小学校の時から、いわゆる社会で良しとされるレールの上を生きてきました。
学校の勉強ができたので中学受験をしたのが、その始まりで、中高一貫校に進学してからは、周りと同じように大学進学、その後就職。
20代後半には結婚も出産も経験しました。
順風満帆に見える一方で、実際には、何かやりたいことを軸に進路を決めた経験はなく、いつも周りと歩調を合わせるように、なんとなくレールの上を進んできただけ。
そして結局、レールを外れた瞬間に「自分はどうしたいのか?」見失ってしまったのです。
そんな自分が情けなくて情けなくて・・・
我が子にはそうなってほしくない!
そんな思いで、私には、何かにつけて子ども達に
「あなたは、あなたが好きなように、自由にしたら良いんだよ」
と伝えてきた…そんな部分があったのです。
それは、自分を反面教師にした『願い』であった一方で
「自由にしたらいいよ」という言葉による『支配』だったのかもしれない
本書を読んで、私はそう自分自身を顧みるようになりました。
一方的に伝えるそれは、なんとも支配的
そんな問いを自分に置きながら、ふと思い出すのは、ある日の長女との会話。
彼女は自分の洋服や雑貨を選ぶ時には
「ねぇねぇ、これとこれ、どっちが良いかな~?」
と、長い時には1時間も迷いながら選ぶようなところがあります。
迷うことを楽しむタイプ(笑)
私は、あまりの長さに嫌気がさし
「もう自由にしたらいいよ!」
と言い放ってしまうことが多かったのですが、ある時長女に
「そうじゃなくて、お母さんがどう思うのか、教えてほしいの!!」
と言われたのです。
言ってくれて有難いな~!と、いま振り返っても思いますが
同じ「自由にしたらいいよ」という言葉でも、相手のタイプも状況も見ずに、一方的に伝えるそれは、押し付けでしかなく、なんとも支配的だったんだな、、
そんなことが思い出されました。
じゃあ、どうしたら良いの?
じゃあ、どうしたら良いの?
「お母さんは自由にしたらいいと思うけど、どう?」と、相手の反応を見ながら双方向にコミュニケーションを取れば、それで良いの?
私には、すぐに答えを出そうとする傾向があるのですが、しばらくは
「自由にしたらいい」という支配。
私には、他にもそういう時があるんじゃない?
どんな時にそうなるの?それはどうして?
そんな問いを立て続けて、日々を過ごしてみようと思っています。
何かがそこにあるな(笑)
それに出会うことを楽しみに(^^♪
ぜひ、本も手に取ってみてください。
ここまでお読み下さり、ありがとうございました。